昭和50年4月21日?不明  タイトル不明    テープ№50-049A面-2

                         入力者松本正宏

 昨日、高山さんのところの、あの謝恩祭の後にお話をさせて頂いて、そのお話の中に昨日の朝、そこの久保山さんのお話をさせてもらった。私は前の月次祭の晩のからこう頭半分が、何んか知らんずくずくうずくような感じの、いわゆる頭痛でしょうか、そんな痛みがあったのですけれども、昨日久保山さんの喜び一杯の話を御届けをさしてもらいよったら、御届けが終わる時にはすっきり治っとった。
 その話を昨日のお話の中にさせて貰ったのですけれども、今朝からあの羽田野さんが御届けをされる。親先生昨日あの、久保山さんのあり難いあり難いお話を聞かせて頂きよってからね、私も実はここんところのリンパ腺が腫れて、とても痛かったのが忘れるようによくなった、という御届けが今あったのです。
 ですからその生き生きとした喜びという事はね、この本当にこの新な心とか生き生きとした心とか、という喜びはそのおかげからおかげを生んでいく働きがあるのです。ね。
 ですから参っておるけん拝んでおるけんで、だけで生き生きとした喜びが生まれるという事じゃないです。今、まだ、その事をあの、思わせて頂きましたら、こうやってカンナをかけておるところを頂きましたよ。成る程カンナをかけるなら、かけただけは新たなものが生まれてきますよね。
 という事は例えて、まあ極端に申しますと、色んな難儀苦しい時にはそれこそ身にカンナをかけられる思いというでしょう。ね。だからその改まるという事ですよ。改まったところだけ新しいものが生まれてくる。
 そういう意味で例えばあの久保山さんの場合なんか子供さんを見られてもう色んな周囲の事柄から言うてもです、結局私が改まる他にないというような生き方からなさるところからね、ああいう生き生きとしたものが生まれ、しかも生き生きとして次から次へと人へ伝わっていくのだと。
 しかも私自身そのお話を聞かせてもらい、あの、御届けをさせてもらいながら、久保山さん私もう、今日は今あなたの御届けを聞きよってから、私のここのずくずくが治ったよというて昨日言った事でした。ならその話が羽田野さんに伝わった。ね。ですからお互いがねせっかく信心させて貰うならね、本当に新な心で信心をさせてもらう。
 なら新な喜びというのは私は、改まりから生まれてくると思うのですよね。それこそ身にカンナをかけるような思いという、苦しい時にただ、苦しいだけじゃいかん。だから助けて下さいじゃいかん。苦しい時には身にカンナをかける思いがするのですから、改まらなければいかん。ね。改まって願わないけんという事になりますね。
    どうぞ